話に出てくる、ボーディサッタとは「のちに仏陀になるはずの人」という意味で、お釈迦様の前の世の姿のこと。
内容
むかしむかし、ブラフマダッタ王が、ベレナスの都で国をおさめていたころのことです。ボーディサッタが、ヒマラヤ山のほとりで水鳥のウに生まれて、ある沼のほとりに住んでいました。このウはヴィーラカ(「強いもの」)と、よばれていました。
ちょうどそのころ、カーシーの国(ベレナスと同じ)にききんがおきて、しだいにたべものがすくなくなってきました。そこで人々はカラスに餌をやったり、鬼や竜にそなえものをしたりすることができなくなりました。それでカラスどもはたべもののない国から逃げだして、だんだん森のおくへ逃げていきました。
ベレナスの町に住んでいたサヴィッタカというカラスも、妻をつれて、ウの住んでいるところにやってきて、その沼の近くに住むようになりました。
ある日、サヴィッタカがその沼のほとりで餌をあさっていますと、ウのヴィーラカが水にもぐっては、魚をつかまえてたべているのが目にとまりました。やがてヴィーラカは水からあがり、沼のふちに立って、からだをかわかしていました。それを見ていたサヴィッタカは、
(あのウの手下になれば、どっさり魚がもらえるにちがいない。わたしはあのウのけらいになることにしよう。)と思って、ヴィーラカのそばへあゆみよりました。
「なにかご用かね?」と、ヴィーラカはたずねました。
「わたくしは、あなたさまの、けらいになりたいのです。」と、カラスは答えました。ヴィーラカが承知しましたので、サヴィッタカはその日からけらいとしてウにつかえることになりました。そのかわり、ウは魚をとると、すぐじぶんがたべるだけたべて、残りはけらいにやりました。けらいはその魚をたべるだけたべて、残りは妻にやりました。
ところが、しばらくするうちに、けらいのカラスは高慢ちきな考えをおこしました。
(ヴィーラカの羽がまっくろなら、わたしの羽だってまっくろだ。目だって、くちばしだって、足だって、あのウとわたしはちっとも違わないじゃないか。なにも、あいつのたべ残しばかりもらっていることはない。さっさとじぶんで魚をとって、たべることにしよう。)
そう思ったので、カラスのヴィーラカに、
「これからは、じぶんで水にもぐって魚をとることにしました。」と、言いました。
ヴィーラカは、
「カラスさん、あなたはもともと、水にはいって、魚をとるような鳥には生まれついていないのです。そんなことをしたら、おぼれてしまいますよ。」と言って、とめました。
けれど、いくらヴィータカがとめても、カラスはそんなことばなどには耳もかさず、さっさと沼へおりていって、いきおいよく水にもぐりました。けれど、ふつうのカラスが水草のあいだを泳げるはずがありません。たちまち水草にからまれて、動けなくなり、くちばしの先だけを水の上に出して、アップアップしているうちに、息がつまって、死んでしまいました。
カラスの妻は、いつまでたっても夫が帰ってこないので、ヴィーラカのところへいって、
「ヴィーラカさま、わたしの夫が帰ってきませんが、いったいどこへいったのでしょう?」と、たずね、
もしもしもしや ヴィーラカさま
わたしの夫のサヴィッタカ
どこぞでお見かけなされぬか
声うるわしく 首すじも
クジャクによく似たあの鳥を
と、言いました。ヴィーラカはそれを聞いて、言いました。
「あなたのご主人のいったさきは、わかっています。」
水にも陸にも住む鳥は
なまの魚もたべほうだい
それをまねしたサヴィッタカは
モにからまって死にました
それを聞いて、カラスの妻は泣く泣くベレナスへ帰っていきました。
家来になる発想があって少し賢いのかと思ったけど、自分も泳げると思い込んでいきなり難しいことに挑戦してしまうところが残念。入れるか試したり、優しいところからチャレンジしたら良いと思った。