内容
話に出てくる、ボーディサッタとは「のちに仏陀になるはずの人」という意味で、お釈迦様の前の世の姿のこと。
むかしむかし、ブラフマダッタ王が、ベレナスの都で国をおさめていたころのことです。ボーディサッタがネズミに生まれかわってきたことがありました。ネズミは大人おとなになると、イノシシの子くらいもある、大きなネズミになり、何百というネズミを手下にしたがえて、森のなかに住んでいました。
ところが、そのあたりをうろついている1匹のヤマイヌが、このネズミの一隊を見て、(なんとかみんなをだまして、たべてしまおう。)と、考えました。そこでヤマイヌは、ネズミたちのすみかの近くに陣どって、お日さまのほうにむかい、フンフンと風をすいこみながら、一本足で立っていました。
ネズミになったボーディサッタは、たべものをさがしに出かける途中、それを見て、あのヤマイヌはきっと聖人にちがいないと思いました。そこで近くへいって、名まえをたずねました。
「わしの名まえは『正しきもの』というのだ。」と、ヤマイヌは答えました。
「なぜ、あなたは四本の足でなく、一本足で立っていらっしゃるのです?」
「もしわしが四本足で立てば、地面がわしの重さをささえきれない。だからわしは、一本足で立っているのだ。」
「ではなぜ、口をあけていらっしゃるのですか?」
「それは、風を吸うためだ。わしは風をたべて生きている。風だけしか食べないのだ。」
「ではどうして、太陽のほうをむいていらっしゃるのですか?」
「太陽をおがむためだ。」
このことばを聞くと、(なんというおこないの正しい人だろう!)と、ネズミになったボーディサッタは思って、それからというものは、朝に夕に、ほかのネズミをしたがえて、この聖人のようなヤマイヌのところへあいさつにいくことにしました。ところが、ヤマイヌはいつもねずみたちの帰りがけをねらって、一ばんうしろの一ぴきを、パクリとたべ、口をふいて、知らん顔をしていました。
そのため、ネズミの数がずんずんへっていきました。そして、みんなは、「まえには、わたしたちの家は、仲間がいっぱいで、せまくるしいほどだったのに、このごろは、こんなにガラガラだ。いったいどうしたわけだろう?」と、言って、おかしらにわけをたずねました。ネズミのかしらも、よくわかりませんでしたが、どうもあのヤマイヌがあやしいと思ったので、ためしてみることにしました。
それで次の日、ヤマイヌにあいさつしにいったとき、ほかのネズミをさきに帰らせて、じぶんが一ばんあとからついていきました。すると、ヤマイヌはネズミの王さまめがけてとびかかりました。それを見てとったネズミの王さまは、くるりとむきなおってさけびました。
「このヤマイヌめ、おまえが聖人ぶるのは、正しいおこないをするつもりではないのだな。ほのものたちをころすつもりで、聖人らしくすましているのだな。」
それからこういう文句をくりかえしました。
聖人らしく見せかけて
みんなのゆだん見すまして
かげでこっそり悪だくみ
これがほんとのネコかぶり
ネズミの王さまは、こう言いおわると、ヤマイヌののどもと目がけてとびかかって、あごの下からのどぶえにかけてさんざんにかみやぶりましたので、ヤマイヌは死んでしまいました。そこでほかのネズミたちも、ぞろぞろもどってきて、ヤマイヌのからだをガリガリモリモリたべましたーーーと言っても、早く来た連中だけがたべたので、あとの者がおくれてきたときには、もう何も残っていなかったということです。それからのち、ネズミたちは心配ごともなく暮らしました。
聖人のふりをしていても見破られる
実際によいおこないをしていなければ、いつかは見破られる。人をだまそうとする考え方を持っているものには悪い結末が待っている。
見破る目をもつことも大事だと思う。