Actions speak louder than words.

行動は言葉よりも雄弁

【世界の深い知恵の話】大いなる山

内容

 

 聖なる山があることでひろく知られている国がありました。世界中のひとが聖なる山のことを聞きつたえていました。でも不思議なことに、その国にすむひとたちは山に目を上げることをせず、いつも地面に視線を落として歩きまわっていました。何をしているのかと問われると、彼らは答えます。

 「もちろん、聖なる山を探しているんだよ。きまっているじゃないか!きみたちもいっしょに探さないか?聖なる山があるとしたら、この国以外のところには見つからないだろうからね。」

 そんなふうにして、その国のひとたちはあの道この道と落ち着かない様子で歩きまわっていました。地図をひろげて、聖なる山はどこにあるのか、議論しあうこともありました。

 聖なる山は空を背に、高くそびえ立っていました。自分のうつくしさ、力づよさに心打たれる人間はいないかと、辛抱づよく待っていました。旅人が足を止めて自分を見上げることなく旅を続けるのを見て、残念でなりませんでした。

 聖なる山の麓に大きな湖がありました。鏡のような水面は聖なる山を静かに映していました。人びとは湖の岸にあつまって、湖に映る聖なる山を指さして、自分たちこそ、聖なる山の発見者だと誇らしそうに自慢しました。ある者は湖に飛びこんで、溺れて死にました。あの山にはまがまがしい力があると言って、山に背を向ける者もいました。聖なる山なんて、うわさばかりだとけなす者もいました。

 そんなある日のこと、山を探しにやってきた一人の男が転びました。そばを歩いていたひとたちがこのひとを踏みつけ、そのひとはあぶなく死ぬところでした。彼はそこに横たわって、自分は間もなく死ぬのだろうとぼんやり考えていました。と、おどろいたことに、見上げた目に聖なる山の気高い姿が映ったのです。彼は自分が見た山の姿について、まわりの人びとに話そうとしました。でも誰も信じてくれませんでした。そこで彼はたった一人で山探しの旅に出ました。

 苦しい旅でした。道はときによるととてもけわしく、危険でさえありました。山の姿がまったく見えなくなってしまうこともたびたびありました。旅の途中でも彼は何度も転びました。でも転ぶたびに山の姿がはっきり見えるようで、それに励まされて、旅をつづけました。やがて彼はふしぎなことに気づきました。彼と同じように聖なる山への道をたどっている人びとは体が不自由なひとであるか、病人ばかりでした。元気な者でも、大きな、重そうな荷物を背負っていて、その重さに耐えかねて、何度も転んでいました。彼はまた気づきました。転んだことのある者だけが聖なる山を仰ぎ見ることができるのだということに。下という言葉の意味を十分に知っている者だけが、上に目を上げて聖なる山を見ることができるのだということに。

 

 

 

なぜ転んだときに大きな山が見えるのだろう?下という言葉の意味を十分に知るとはどういう意味だろう?なぜ普通の人は山が見つけられないのだろう?なぜ下ばかり向いて、大きな山を探そうとしているのだろう?下ばかり向いていては山は見つからないと思うけど、これは何を表しているのかがわからない。難しい。こういう話をハブルータして、他の人の考えを聞いてみたい。