内容
今までまじめに勉強してきた学生が、ふと通りかかった家に鍵がかかっておらず、ドアが少し開いていたので、つい出来心が生じて物を盗んでしまった。
この学生は警察に捕まり、裁判にかけられたが「つい出来心で」という弁解は裁判では通らない。学生は有罪になり、大学も退学処分になって就職もできず、結局心がすさんで、今度は本気で盗みに走るようになってしまった。
再犯で捕まると、刑務所に行く年数も長くなり、結局この学生は、刑務所を出たり入ったりする人生を送ることになった。
この学生の犯罪で、何人もの人が物を盗られる被害にあった。。もし、最初の家の人が鍵をかけていれば、この学生は道を踏み外すことなく、真っ当な人生を歩んでいたかもしれない。いったい誰が悪いのだろうか?
情報は疑って見よ。思考停止が判断を誤らせる。
世界各地の言葉がバラバラなのはなぜか?
同じ言葉を使って同じように考えると、なぜ?という疑問が起こらなくなってしまい、思考停止になり、人類が進化しなくなってしまう。
世の中が間違った方向へ進んでいくのは、大勢の人が思考停止しているときだ。
権力者は民衆の思考を停止させるべく扇動する。思考停止した民衆は気づいたときにはもう後戻りできないところまで行ってしまう。
常識的に考えれば悪いのは学生本人である。しかしこれを神の目から見たら?
「鍵をかけていなかった人」は学生の人生を狂わせ、何人も被害にあう人が出て、警察、裁判所、刑務所の厄介にさせて、社会的に大きなコストを払わせる原因を作ったことにならないか?
善良な人々のちょっとした不注意が知らず知らずその発端になっているかもしれない。
さらに怖いのが、大勢の人間が思考停止したとき、世論が1人の人間を血祭りにあげ、決めつけてしまった時点で思考が停止する。
「違う考え方はないだろうか?」と別の発想から見直す習慣をつける。
いろいろな視点から深く分析できると、前向きに考えられるようになる。